私の興味ある、悟りについての話や、スピ系の講演の感想、ヒーリングの体験談などを書いています。
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先が見通せない不安の中で…
今日は、月初めで新月。
なんとなく、きりがいいですね♪

ってことで、石の波動水(エリクサー)を仕込んでみました~。
ブラックトルマリン、エリットシュンガイト、MGMのエリクサーです。

保護をイメージしています、上手く出来るといいな。


また、手作り委託販売サイトのminneにも登録してみました。

…と言ってもまだ一点だけなんですけどね(;´Д`)

本当は、もっと沢山アップしてから、
お知らせすべきですが、
それだと、ずるずる先延ばししちゃいそうなので…。

とりあえず今日踏み切って、
徐々に増やすつもりでいます。(^_^;)ゞ

glass1-1.jpg

■minne■

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

さて、台風10号、岩手県や北海道など、
本当に大きな被害を出しましたね。
被害にあわれた皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。
それとともに、一刻も早い心の安らぎと
復興をお祈りしております。

災害のニュースを見ていると、本当に不安になります。

個人の努力や人柄とはまったく関係なく、
悪い事は、降りかかってくるのが分かるからです。

「今、努力すれば、未来は良い人生になる。」
今まで社会は、私たちにそう教えてきました。

だからこそ、私たちは「今」を犠牲にし、
「未来」へ希望を託すことが出来たのです。

しかし、どうあっても、ハプニングやイベントは起き続ける…。
悟りを一瞥した者でさえ、それは無くなることはないのです。
(とはいえ、それを苦として受け取らなくなる可能性はありますが。)



「今後、状況的にはいろいろ大変になってゆく。」
以前、黒斎さんが講演で言っていました。

陰陽太極図のように、陽に移る直前には、
一番濃い陰を通過しなくてはならないからです。

また、このような混乱、悪夢のような状況は、
人類に目覚めを促すのに必要でもあるそうです。

いい夢だったら、
まず人は、目覚めないでしょうから…。



今を捨てて、未来へ希望を託す。
かつてのそんなやり方が通じなくなってきました。

未来のための修行、未来のための努力、未来のための苦行…
反対に、過去(カルマ解放)のための、「今」という消費…

それをやっている時間は、
私たちには、もう無いのかもしれません。

とにかく、今、幸せでいる必要があるのです。


とはいえ、すごく難しいですよね。
私にもなかなかできません…。
それは、やはり、守るべき「個人」がいるからだと思うのです。

長くなりそうなので、続きます。


※ みなさま、前回は拍手有難うございます!!
感謝感激でございます、励みになります\(^o^)/
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「重要さ」という重荷
疲れたもの、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。
               マタイ11章28節



さてさて、時間って大切ですよね。

幼いころは、下らない遊びばかりしていましたが、
今考えると、あれは時間の無駄ってもんです。

で、私のような知恵をつけた大人は、
なるべく重要な事だけしようと、努力をしています。
(でも結局出来ないんだけど、汗)


そして、大人の言う「重要なこと」とは、
大抵、生存に有利になることです。

つまりはお金を稼ぐことだったり、
自分を磨く努力だったり、
(技術や知識を得たり、外見を磨いたり、修行したり等々)です。

正直、それ以外はくだらないし、
暇な人がやることです!
ね、ね、そうでしょ?

でも…

「ポケモンGOで、
一日中ポケモンをやっていたら、暇な人と言われるけど、
もしそれが仕事になったとしたら、忙しい人になる」

そんな風に、黒斎さんは「わかりかけのRadio」で言っていました。

とすると、行動自体に、
重要さ、非重要さがある訳ではないみたいですね。

つまり、現世的な利益を産むか否かで、
社会的な見方が変わるようです。

趣味は軽んじられ、仕事だったら、尊敬されるという風に。



前回、黒斎さんの月イチ☆に出たとき、
なるほどなー、と思ったことがありました。

「今日は運動しましょう」との黒斎さんの呼びかけに、
みんなが、彼の指示通りに動きました。

すると、最後にはみな、両手を招き猫のように丸めて、
耳の横につけた可愛らしい(?)ポーズとなりました。

いい年をした大人たちが、
揃いも揃って、萌えポーズっぽい事をしてるんです、笑

「くだらないと思うでしょ?
でも、大人になって、くだらないことをやらなくなるから、
どんどん重くなるんです。」

な、なるほど!

そう、人生がどんどん重くなって、
どんどん押し潰されそうになるのは、
重要な事で、時間を埋め尽くそうとしているからなんです。

重大なこと、大変なことばかりで人生が埋まってしまう。
すると重みで身動きが取れなくなる…。
これは真面目な人ほど、そうなります。

行動が子供のころと変わったからではありません、
人間なんて、動き自体はそんなに変えられないものですし。

ほら、子供の時は飛べないけど、大人になったら飛べた、
なんて事は無いはずでしょ?

だから、大きく変わったのは意識なんです。

重要なことをしなきゃ、努力しなきゃ!成長しなきゃ!!

でないと、生き残れないかもしれないぞ。
でないと、勝ち残れないかもしれないぞ。

でも、重要なことさえしていれば、
我慢し続けたり、身体を壊すことも厭いません。
なぜなら、それは社会からは称賛されることだからです。

その概念が現代社会を支えています。
だから、みんな仕事を頑張ります。
努力もします、成長もします、修行だってします。

そのせいで、過労死になろうとも…。



対して、くだらないと言われる事は
たいがいお金を産みません。

ちなみに、私は、人からたまーに「器用ですね」と言われます。
が、そのどれも、お金にならないくらいの低精度の趣味なので、
褒められても、一向に自信が持てません…(;´Д`)

軽い(くだらない)ことだから、重要に思えないわけなんですね。


このようにして
私たちは、どんどんどんどん重くなります。

また、重くなりたいとも思っています。

そうすれば、将来は重荷を背負わなくてすむかもしれないから。
そうすれば、未来は傷つかなくなるかもしれないから。

黒斎さんは、「わかりかけのRadio」でこう言っています。

「人がどうして、努力や学習や修行や成長、進歩が好きかっていうと、
今までの人生に納得がいっていないからなの。
で、幸せじゃないの。
自分が深く傷ついているからこそ、
そこに意味や価値がないとやりきれない。」


かつて、イエスは言いました、
「疲れたもの、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」と。

しかし、重荷を負わない者、軽く生きる者
(遊ぶ人、お金にならない事をする人)を
私たちは、軽んじてはいないでしょうか?

そうだとすれば、誰がイエスのもとに
行きたがるというのでしょう?


そしてまた、現代人のうち、いったいどれくらいの人が、
「人生に意味なんかいらない」と言えるくらい、
軽くて、幸せな人生を送れているでしょう?

それともやはり、意味の方が
幸せなんかより、重要だということでしょうか…。

~・~・~・~・~・~

話は変わって、お知らせですぅー(^_^;)

中身が入れ替えられるガラスドームペンダント
(中に入れるさざれ石で色が変わります)や、
液体や麻炭を閉じ込めたペンダントトップを作ってみました。

ガラスドームペンダントは、中身をアロマオイルにすると、
アロマペンダントになります。

いつか、ネット販売でも出来たらいいなと思っております、汗

そう、このようにして、稼ぐという深刻さを抱えるよっし〜が、
できていく訳ですね(;´◇`)ゞアチャ

自信は全くございませんが、
もし、拍手等で励ましていただけましたら、
感激至極でございます、汗汗汗

glass8-25.jpg
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思考内の幸せ
うちの庭に、キジバトがエサを食べにやってきます。

けっこう人慣れしていて、
人が出てくるのを待っていて、エサをねだったりして可愛いです♪

ハトが来るようになったきっかけは、
カラスに襲われて飛べなくなったドバトを
父が庭で保護していたことがあったから。

こぼれたエサを目当てに、キジバトが来るようになり、
ドバトが居なくなった今も、キジバトは来続けています。

さらには、キジバト内で話が広まっているのか(?)
数も増えているようす…。

といっても、どれも同じ顔と模様をしているため、
何羽来ているか、さっぱり分からないんですけどね。(^_^;)

でも、おどおどしているハトから、
ずうずうしく、玄関に入ろうとするハトまで、みんな性格が違うみたいです。

kizibato

で、来るのはキジバトばかりで、ドバトは来ないのが不思議ですね。

近所には、ドバトの群れがいたりするのに。

やはり、キジバトコミュニティ(?)だけで
餌場情報が広がっているのかもしれません。

なーんて、話し合っている妄想をしましたけど、
実際は、キジバトは同種にたいして、
びっくりするほど不寛容みたいです。(^_^;)

ある一羽のハトは、お腹いっぱいなのに、ずっと庭に居座っていたりします。

そして、あとから来るカップル鳩を
ブーブー言いながら、(本当にそう鳴くの!)追い出したりするんです。

自分は食べないなら、あげてもいいのにー。

実際のハトは、
平和の象徴らしからぬ行動をしていますね。(^_^;)

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

さてさて、8月ですね。
テレビでは、戦争の関連番組が多くやっています。

こうした戦争や、またはテロや殺傷事件の話を聞くと、ついつい思ってしまいます。

頭だけでの理解でいいから、
「私たちは一つ」という概念が、人類に広まればいいな、と。

それが広まったなら、
いがみ合ったり、傷つけたり、いじめたりなどの事件は
大幅に減るに違いありません。

そしてまた、この概念さえあれば、
社会の構造も、ガラリと変わってしまうことでしょう。

でも大半の人にとって、それは思いもよらない事です。
だから、社会には深い分離と批判と比較があります。

そしてまた、「分離と比較」から、
「絶対的な」幸福が得られると、私たちは信じてもいます。

「比較しないと存在しないモノ」なら、
「絶対的なモノ」で有るはずがないのに…。




さて、幼子であれば、
幸せは「比較」じゃないことを知っています。

陽がゆっくり傾いて、雲が金やバラ色に染まりつつあるのを見たり、
どこからか、夕食の香りが漂うのを感じたり、
お母さんに抱きしめられるだけでも、
子供は幸せを感じます。

これらは、当たり前ですが、
他者との比較で、感じるものではありません。

しかし、大人になり、
競争や比較が当たり前になると、
幸せさえ、競争して奪い取るものになってしまいます。

幼子が成長し、友達が持っているオモチャが
自分だけ持っていないと気づいてしまった時のように…。

それに気づいた子供は不機嫌になります。
でも、知り(比較)さえしなかったら、不幸にならずに済んだのに…。



さて、もし幸せが、他者との「比較」でしか生まれないとすれば、
生きることは、果てしない戦いでしかありません。

「比較」ゆえに、全員が上位にはなれず、
必ず、下位の者が生まれるからです。

それは、自分の幸せには、
自分より格下の誰かが必要ということです。

さらに言えば、自分より幸せな人を見ても、嫌な気持ちになります、
自分の幸せを取られたように感じるからです。

上にならなければ(比較しなければ)
幸せになれない。


これこそ、差別や偏見、理由なき軽蔑が生まれる原因です。

この思考に気づかないかぎり、
どんなに戦争やテロの恐ろしさを説いたところで、
それらは無くならないでしょう。

自分と違う、人種や国籍、宗教や性別や性格、
セクシャリティーに対する偏見と迫害も、やまないでしょう。

幸せが、他者との比較や優越感、
何らかのステータスから、生まれると信じているかぎりは…。

誰かを蔑まないと、自分が愛せないと信じているかぎりは…。



思考がこねくり回して生まれた、「幸せ」の定義。

それは、自分にとって本当のことなのか、
各自が考える時期なのかもしれません。
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人生に対する指針
一昨日の小池百合子知事の初登庁で、
都議会議員や自民党が、
異例の出迎え拒否をした事にはがっかりでした。

川井議長も、小池知事との記念撮影を断っていましたね。

彼らのあまりにも子供じみた嫌がらせには、
本当にがっかりします。

そして驚きもしました。

それは、彼らはこの行為が、
都民、そして日本国民にどう受け取られるかを、
想像できなかったという事です。

だから、テレビカメラの前で、
どうどうと醜態をさらせたのです。

そこから嫌でもわかってしまうのは、
彼らには、それが当たり前の行動であったという事。

つまり自分たちが恥ずかしい行為をしたとは、
思っていないのです。
だって、いつも通りのことをしただけなんですから…。



ふつう、自分がどんな存在かを知るには、
自分以外の人と比べなくてはいけません。

周囲の人々の差異から、
自分がどんな性質であるか知る事ができます。

よく、外国人からは「日本人は親切だ」と聞きますが、
ずっと日本で暮らしていたら、気づけなかったりしますよね。

でも「日本より治安が悪い国が沢山ある」と知ることが出来れば、
「日本人は親切だ」と理解できます。



たぶん、東京都連という伏魔殿は、
日本じゃない場所にあったんでしょう。(^_^;)

だから、一般的な日本人の感情や心情も
おもんぱかれなかったのです。

彼らの集団では、
「自分の都合の悪い人間へは、集団で意地悪をして排除する」のが、
ごくごく当たり前の事でした。
弱肉強食の世界だったんでしょう。
(だから私たちを食い物にするのも、ごく当然なわけです……)


そんな思考の浅はかな、
未熟さゆえの高慢なプライドの人々が、
国を動かしているのは、残念なことです。

と同時に彼らは、滑稽なほど分かりやすく「ネガティブ(分離)とは何か」を
私たちに見せてくれました。

そしてそれは、程度の差はあれ、私たちにもあります。

だからこそ、それがどのようなもので、
どこに私たちを連れていくのかを
冷静に見てゆく必要があるのです。

今回は少なくとも、人を陥れようとする彼らの、
心の闇と飢えに気づけたかと思います。



昔から、人生の指針として善を求め悪を避けよ、
と人は言ってきました。

そうは言っても、それで人類が幸せになったように思いません。
この教えで、東京都連が
都知事に優しくなるとも思えません、笑

だって、善を目指せと言われてもこまるのは、
善も悪も、定義があいまいだからです。

立場によって、善悪は真逆になったりします。
宗教によっても、善悪の概念は違います。
聖戦という訳の分からない言葉さえあります。


また次の問題としては、
二元である、この世界の性質にあります。

右に行った振り子は、次は左に振れます。
左に行った振り子は、次は右に振れます。

善さえ、突き詰めて追い求めると、
反転して悪になります。

また、悪を極めようとすると、
やがてはそれに飽きて、善に戻っていきます。

二元の世界は、陰陽太極図のように、
常に陰陽を内包し、二つを繰り返します。

というわけで、「善を求めよ」という指針は
つかみどころがありません。
また、善になれたとしても
それさえ、固定された状態ではないのです。



では、生きるにあたり、
何を指針にすればいいのでしょうか?

でこぼこのない、平坦な道を歩むにはどうしたらいいか、
考えてみたときがありました。

で、こう結論付けたのです。
「人生を俯瞰しつつ、Holyでいること」だと。

Holy(神聖)の語源は、whole(全体)と言われています。

自我に執着しすぎることなく、全体のために生きること。
始めは家族、それから人類、地球などといったように、
出来るだけ大きな視点へ奉仕できるようにすること。

そして、日常の物事(ドラマ)への
自己の同一視をやめること。


まぁ、私が出来ているかは、非常に疑問ですけれども、汗汗


でも物事を「善悪」でなく、
「統合か、分離か」で基準に見てゆくのは、
非常に分かりやすいです。

人には、動物愛護を謳って、別の人間を傷つける者や、
神のためといって、人々を分離させる人もいます。

この基準でみると、
彼らは、口では愛(統合)といいつつも、
はっきりと分離を選んでいるのがわかります。




………。

ここまで書いていてなんですが、
本当の幸せの達人は、幼子かと思います。(^_^;)

こういったマニュアル(作為)もなく、
ただ、今を楽しんでいるんですもの。

求める物がなくなったとき、
このようなマニュアル(作為)もなくなり、
純粋に、幸せでいられるんでしょうね。
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コントロールを望む想いが「悪」の概念を生む〜その2
hirokoさん、拍手欄にコメント残してくれて有難うございます!
今になって気づきました、すみませんっ m(_ _)m
このブログにもコメント欄があるのですが、なぜかたどり着きにくいようです、汗


さて…。
本当にひさびさに、黒斎さんの月イチ☆に行ってきました。
チケット予約制がなくなって以来、私が初めて行った講演です。

新しくスタンプカードというものが出来ていたのが、
何だかウケました。(^◇^)
5回行くと、次は無料になるそうです。


さて、今回の講演を聞いていて思いました。
「ああ、ちょうどブログで、この事を書きたかったの!」と。

私が感じていることを、違う言葉や角度で表現し、
さらに補足までしてくれるから、
私は、黒斎さんの講演が好きなんだろうと思います。

だから、私にとって重要なのは、
真理を語っているかではないのかもしれません。

今、共感できるかどうか。
ただ、それだけなのかもしれません。



さて…。

今回のタイトルの「コントロールを望む想いが悪の概念を生む」

これは、固すぎる表現だし、
わかるようなわからないような、変な文章ですよね?


黒斎さんは、同じことをこう言っていました。

「作為は、不幸によって生まれる。」

えっ、全然違うことじゃん、と思われた皆さま!

確かに…。(^_^;)

いやいや、いやっ。
どうか補足させてくださいませ、汗。



「こうあってほしい、こうあるべきだ。」

こうした思いがあればあるほど、
コントロール出来ない事がらに、意識が釘づけになります。

だから、自我はコントロールしようと、
行動(作為)を起こします。

これが、黒斎さんの言う
「作為は、不幸によって生まれる」です。

まず前提として、不幸でなければ、作為は起こらないというのです。
作為を持てばもつほど、不幸を抱え続けることになる。
反対に、幸せには作為がないとも言っていました。

そして、私が言いたい事は、
コントロールしたい思いがあるからこそ、
コントロール不可な事柄を、自我は悪と捉えるという事なんです。



昔、陰陽師がいて、不思議な術によって、
現実をコントロールしたと言われています。

彼らは幸せだったか、否か?

超能力を持っていれば、
少なくとも超能力分くらいは、ふつうの人より、
幸せに違いないと私たちは考えます。

しかし、そうではないと思うのです。

たとえば、天皇が病気になり、祈祷を頼まれたとします。
彼の認識の中では、「天皇は死ぬべきでない」となるでしょう。

「天皇の死」=「悪、不幸」という図式になり、
それを意識し続けることになります。

また、意に沿わないライバルの陰陽師も出てきたりします。
するとやっぱり、
「敵」=「悪、不幸」となって、戦うのです。

悪、不幸を見続ける限り、平安は訪れません。

たとえ、世界を手中に出来るほどの力を
手に入れたとしても、関係ないのです。

「こうでなくてはいけない」という思いは、
潜在的な不幸から発生しています。

そして、その不幸に意識が向けば向くほど、
不幸は継続していきます。

他の人より、力(超能力や経済力)があるかは関係ありません。

それは、単にドラマのバリエーション、
味わいの強弱に過ぎないのです。

それでも、自我はささやき続けます。
「力を手に入れれば、不幸は終わるだろう」と言って。

こうして、夢の世界は継続してゆくのです。



さて、気功はもともと、
道教の修行法である仙道だったと言われています。

仙道とは、気を使って現実をコントロールしたり、
最終的には気の身体を作り出し、肉体が滅びたあとも、
不老不死になることを目指しています。

平たく言えば、超能力獲得ですね。

そうした仙術、呪術、あらゆる宗教の修行法、といったものは、
その先に目指すものがあるかぎり、黒斎さんのいう「作為」にすぎません。

不幸(の脱却)から発生した行為は、
必然的に、不幸(の注視)へと還らざるおえないのです。

むろん、例外もあって、子供のように
その行為のみを純粋に楽しむならば、それにあてはなりません。

つまり、行動自体は、幸不幸を左右しません。
あくまでも、意識がそれを左右します。

行動の先に、切望するものがあるかどうか、
期待するものがあるかどうか…それがカギです。



良い人になろうと努力したり、
気功や仏教の修行を頑張ろうとしたとき…。

そしてまた、偉い人や凄い人の考え方を、
無理やり信じようとしたとき、
私は、どんどん不自由になっていきました。

がんじがらめになって重くなり、
身動きが取れなくなった時、こう思ったのです。

自由になりたくて、悟りを得たかったのに、
どんどん、不自由になるのは何故なのかと。


生き物である私たちの、究極の願いは、
快適に楽しく暮らすことです。

そんな単純な願いすらも、
頭でっかちな私は、気づけなかったのです。
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