私の興味ある、悟りについての話や、スピ系の講演の感想、ヒーリングの体験談などを書いています。
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コントロールを望む想いが「悪」の概念を生む〜その2
hirokoさん、拍手欄にコメント残してくれて有難うございます!
今になって気づきました、すみませんっ m(_ _)m
このブログにもコメント欄があるのですが、なぜかたどり着きにくいようです、汗


さて…。
本当にひさびさに、黒斎さんの月イチ☆に行ってきました。
チケット予約制がなくなって以来、私が初めて行った講演です。

新しくスタンプカードというものが出来ていたのが、
何だかウケました。(^◇^)
5回行くと、次は無料になるそうです。


さて、今回の講演を聞いていて思いました。
「ああ、ちょうどブログで、この事を書きたかったの!」と。

私が感じていることを、違う言葉や角度で表現し、
さらに補足までしてくれるから、
私は、黒斎さんの講演が好きなんだろうと思います。

だから、私にとって重要なのは、
真理を語っているかではないのかもしれません。

今、共感できるかどうか。
ただ、それだけなのかもしれません。



さて…。

今回のタイトルの「コントロールを望む想いが悪の概念を生む」

これは、固すぎる表現だし、
わかるようなわからないような、変な文章ですよね?


黒斎さんは、同じことをこう言っていました。

「作為は、不幸によって生まれる。」

えっ、全然違うことじゃん、と思われた皆さま!

確かに…。(^_^;)

いやいや、いやっ。
どうか補足させてくださいませ、汗。



「こうあってほしい、こうあるべきだ。」

こうした思いがあればあるほど、
コントロール出来ない事がらに、意識が釘づけになります。

だから、自我はコントロールしようと、
行動(作為)を起こします。

これが、黒斎さんの言う
「作為は、不幸によって生まれる」です。

まず前提として、不幸でなければ、作為は起こらないというのです。
作為を持てばもつほど、不幸を抱え続けることになる。
反対に、幸せには作為がないとも言っていました。

そして、私が言いたい事は、
コントロールしたい思いがあるからこそ、
コントロール不可な事柄を、自我は悪と捉えるという事なんです。



昔、陰陽師がいて、不思議な術によって、
現実をコントロールしたと言われています。

彼らは幸せだったか、否か?

超能力を持っていれば、
少なくとも超能力分くらいは、ふつうの人より、
幸せに違いないと私たちは考えます。

しかし、そうではないと思うのです。

たとえば、天皇が病気になり、祈祷を頼まれたとします。
彼の認識の中では、「天皇は死ぬべきでない」となるでしょう。

「天皇の死」=「悪、不幸」という図式になり、
それを意識し続けることになります。

また、意に沿わないライバルの陰陽師も出てきたりします。
するとやっぱり、
「敵」=「悪、不幸」となって、戦うのです。

悪、不幸を見続ける限り、平安は訪れません。

たとえ、世界を手中に出来るほどの力を
手に入れたとしても、関係ないのです。

「こうでなくてはいけない」という思いは、
潜在的な不幸から発生しています。

そして、その不幸に意識が向けば向くほど、
不幸は継続していきます。

他の人より、力(超能力や経済力)があるかは関係ありません。

それは、単にドラマのバリエーション、
味わいの強弱に過ぎないのです。

それでも、自我はささやき続けます。
「力を手に入れれば、不幸は終わるだろう」と言って。

こうして、夢の世界は継続してゆくのです。



さて、気功はもともと、
道教の修行法である仙道だったと言われています。

仙道とは、気を使って現実をコントロールしたり、
最終的には気の身体を作り出し、肉体が滅びたあとも、
不老不死になることを目指しています。

平たく言えば、超能力獲得ですね。

そうした仙術、呪術、あらゆる宗教の修行法、といったものは、
その先に目指すものがあるかぎり、黒斎さんのいう「作為」にすぎません。

不幸(の脱却)から発生した行為は、
必然的に、不幸(の注視)へと還らざるおえないのです。

むろん、例外もあって、子供のように
その行為のみを純粋に楽しむならば、それにあてはなりません。

つまり、行動自体は、幸不幸を左右しません。
あくまでも、意識がそれを左右します。

行動の先に、切望するものがあるかどうか、
期待するものがあるかどうか…それがカギです。



良い人になろうと努力したり、
気功や仏教の修行を頑張ろうとしたとき…。

そしてまた、偉い人や凄い人の考え方を、
無理やり信じようとしたとき、
私は、どんどん不自由になっていきました。

がんじがらめになって重くなり、
身動きが取れなくなった時、こう思ったのです。

自由になりたくて、悟りを得たかったのに、
どんどん、不自由になるのは何故なのかと。


生き物である私たちの、究極の願いは、
快適に楽しく暮らすことです。

そんな単純な願いすらも、
頭でっかちな私は、気づけなかったのです。
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