私の興味ある、悟りについての話や、スピ系の講演の感想、ヒーリングの体験談などを書いています。
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受け入れること、理解すること。
air_rank[1]

愛しなさい、とはスピ系でよく言われますが、
ぶっちゃけ、よく分からない言葉でもあります。

少なくとも、私にはわかりません!<( ̄^ ̄)>エッヘン
(威張ることかヨ…(^_^;) )


以前、月イチ☆で、黒斎さんに、
男女間とワンネスの愛の違いについて、尋ねた人がいました。
いわゆる、エロスとアガペですね。

すると彼はこう答えました。

僕たちは、本当の愛を知りません。
僕たちが愛と呼んでいるのは、すべて、
自我にとって、都合のいい状態を得るための取引だからです。



私たちは、愛を知らない…。

スピでよく「愛しなさい」と言われます。
愛すれば、生きることが楽になりますよ、と。

でも、愛が何か分らなければ、それって難しくないですか?

なので、よっし〜の場合、
愛に対しては、長いこと思考停止してました、笑



前回、「なまけ者のさとり方」を引用したついでに、
この本を読み返してみました。

すると愛について、このように書かれていました。

「愛とは、他の人とスペースを共有すること」

ここには「他の人と」とありますが、
彼は「すべての存在が生きているし、
一つの同じものから出来ている」と言っているので、
「全ての存在と」と言い換えられるでしょう。

また、こうも言います。
「愛が最も気高く、最も神聖な行為であるのは、
愛がその中に常に愛でないものまで包み込んでいるからです。」


もしそうならば、
全てを受け入れる姿勢が愛といえるでしょう。



しかし、苦しみや悲しみの多いこの世で、
すべてを受け入れるということは、可能でしょうか?

通常の考えだと、
苦しみを受け入れることは、
従順な被害者になるだけだと思われています。

それより、戦うか、逃げ出すかが、
苦しみから抜けだす最善の策と考えられています。

しかし、戦いは、さらなる戦いを呼ぶし、
逃げ出せば、逃げ出した先でも、同じようなことが起こったりします。

意識は、注目するものを強調するので、
戦ったり、逃げ出す行為そのものが、苦痛の状況を長引かせるのです。

だから、今だに人類は、苦痛から抜け出せてはいないし、
精神的苦痛だけでいえば、昔よりずっと酷いくらいです。


でも、嫌なものを受け入れること(愛すること)は
現実的に可能なのでしょうか?

第一、受け入れられるくらいなら、
嫌にはならなかったでしょうし…(^_^;)

しかし、
もし出来るとするなら…。

たぶん、嫌なものや
苦痛の存在意義が分かることが
絶対的に必要
だと思うのです。

そして、それはまさしく価値観、視点の転換をするという事です。
行動ではなく、在り方を変えることです。

以前、 ◼︎すべて良し、ということ◾︎で、書きましたが、
おバカな勇者ヨシヒコを暖かい目で見れるかどうかは、
視点によります、笑

距離を置いて見る、
つまり、神の視点で見ることが必要
なのではないでしょうか。


それに本質的に、
私たちは、騒動やドラマが大好きです。

なぜなら、それこそ、神(ワンネス)が、
体験したかった事だからです。

以前も話題にした本、
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」で例えてみましょう。

この本の主人公、ふとっちょでいじめられっ子のバスチアンは、
古本屋で見つけた「はてしない物語」に、
運命的に出会い、読み始めます。

その本には、ファンタージエンという不思議の世界が描かれ、
勇者の少年、アトレーユが登場します。
アトレーユは、滅びゆくファンタージエン国を救うため、
救い主である、人間の子どもを探す旅に出ます。

大変な冒険の末、親友である愛馬を失い、
結局、人間の子も探せなかったアトレーユ。

傷心の彼は、旅を依頼した幼心の君に、このことを詫びます。

すると、幼心の君はよくやり遂げてくれた、と微笑みます。

なんと、探せなかったと思っていた人間の子どもは、
始めから、ずっとアトレーユと共にいて、
彼女もそれを知っていた、と言うのです。

始めから救い手がいると知っていながら、
多大な犠牲を払って冒険をしたのはなぜか、と怒るアトレーユに、
幼心の君はこう答えます。

「冒険やふしぎや危険にみちた長い物語によってのみ、
そなたはわたくしたちの救い手をつれてくることができたのです。」


冒険物語に引き込まれて、
ここまで読み進めていたバスチアンは、これに驚愕します。

読んでいる本に書かれているのは、まさに自分のことで、
物語に必要とされていることを悟ったからです…。



バスチアンが、ここまで引き込まれた冒険物語。
心引く物語には、感動があります。

感動…つまり平坦でない心の動き、上下動があるのです。

感動を求めれば、喜びと苦しみの上下動は避けて通れません。

喜び、悲しみ、怒り、ありとあらゆる感情…
その振れ幅が大きいほど、
壮大かつ、ワクワクドキドキする物語になります。

この、心が踊る大冒険。
それが、神のしたかった事
です。

もちろん、変化が嫌いで、
楽で平坦な人生を望むエゴは、それに反抗するのですが。

で、なんとか自分で、人生をコントロールできないかと、
引き寄せや、自己啓発などのメソッドを使い、
望む人生にしようと躍起になるのです。

「神様の願いと、僕たち(自我)の願い、
どっちが強いと思う?
圧倒的に、神様の方が強そうじゃない?」
と黒斎さん。

もし、そうだとすれば…ですが。

エゴがどんなに平穏さを望んでも、悟りを得たとしても、
この世に生きるかぎり、
ある程度のハプニングや、ドキドキは、きっと続きます。

それが、内なる神が望むことだからです。
ドキドキ、ワクワクしたかったからです。

バスチアンが、「はてしない物語」にワクワクし読み続けたように。
そしてそれは同時に、
アトレーユにとっては、苦しみの物語だったように…。


神の視点を忘れ、
ストーリーの一部になってしまった、私たちは苦しみます。

バスチアンも、この後、本の世界に入り込んでからは、
さんざん苦しみます。
「冒険物語を読む」から「冒険を体験する」へと、
視点の距離が縮んでしまったからです。


……。
なんか、まとまらないというか、
話がずれてきましたが…。(;^Д^A 

結局、受け入れられない、ということは。
愛の欠如であるとともに、
視野の狭さでもあり、不理解とも言えるのかもしれませんよね。

air_rank[1]
今日は、37位でした〜(*^_^*)
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