私の興味ある、悟りについての話や、スピ系の講演の感想、ヒーリングの体験談などを書いています。
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つじつま合わせの世界観〜顛倒夢想の世界〜
たいへん遅ればせながら…(;^_^A
先日やっと、アナと雪の女王を見てきました。

まぁ、いろんなところで、レビューが書かれていますし、
物語的には、特出すべき感想もないんですけど…。

でもやっぱり、映像は素敵でした〜。
3Dってやっぱり凄いですねっ。

Let it goの映像については、ネット動画でみるほう、
つまり2Dの方に馴染みがあったわけです。

でも、映画で距離が感じられると、こうも違うのかと驚きました。
なんか…印象が違うのです。

でね、3Dだと映像が美しいし、空気感もかんじられるし、
それが、もちろん良いわけですが。

遠くの山やお城など、背景が1枚絵になってる場合、
フラットだという事すら分かってしまうので、
見えすぎるのってこういういうことか、とちょっと笑いました。

2Dなら、まず分からないところですものね。

もちろん、3D映画だって、3Dメガネを外してみれば、
スクリーンはペラペラだし、映像だってもちろん厚みなんかありません。

3Dに見えるように、つじつま合わせをしただけの
脳にとってのだまし絵です。

「私はいかなるものも
ありのままに見ていない。」


奇跡のコースに、そういう言葉を繰り返すレッスンがあったのを
思い出しました。

もちろん、映画は良い意味で「ありのままに見ていない」わけですが。

しかし、それ以外のもの、つまりリアルとされるものすら
実は、脳のつじつま合わせじゃないか、と思いました。



例えば…。

自分が見ている緑色は、
もしかしたら、他の人が見ている緑色と違うかもしれない、と
思ったことはありませんか。

えっ…ないですか、ええ、そうですか…(´・ω・`)
でもね、聞かれたらあることにするってのが、大人のエチケットですヨ。
ええ、ココ重要です、試験に出ますからね、覚えてくださいネ (`・ω・´)/



でも、他の人の緑色と、自分の緑色が違っていても、
知るすべもないし、不都合はないわけですよね。

だって、共通してみんなが「緑」と言っているわけですから
見ているものは違えど、つじつまはあうわけです。

もう一つ、例えを使いましょう。

「右に障害物が見えたら、左に避ければいい」
そんなの、言われるまでもなく常識です。

しかし、本当でしょうか?

つじつまがあったから、
真実だと思っているだけではないでしょうか?

上下左右が逆転してみえるメガネをかけて生活する、
という実験があるそうです。

そのメガネをかけると、上にある物が下に見え、右の物が左に見える。
さらに、奥にある物が、手前に見えて…。

例えば、立ちションなどをすると、
おしっこがこっちに飛んでくるように見えるらしいのです。
ひぃぃぃ〜、ちょう怖い話です〜!!(((( ;゚Д゚)))ガクブル

…いやもちろん、よっし〜は立ちションなどしませんがっっ、できないっつーか (^^;;

さて、これをかけると
はじめこそ、視覚と現実とのギャップに、
強い吐き気に襲われたり、動けなくなると言います。

しかし、慣れてしまえば、数日後くらいに、
普通の生活ができるようになってしまうのです。

「右に障害物が見えたら、左に避ければいい」というのはつじつまがあわない、
「右に障害物が見えたら、右に避けるのだ」と脳が学習した、ということです。

私たちは、真実を見ていると思っていますが、
ぶっちゃけ、つじつまが合う世界を見ているだけではないでしょうか?


つじつまがあってさえいれば、真実でなくても、
なんら問題がないと思いませんか?

そういう意味で、私たちはただ、
物事を見たいように見ているだけ
…かもしれません。

昔、シックスセンスという映画がヒットしましたが
あれなど、まさしく、見たいものを見ている男の話でしたね。
つじつまもあっていたし…

…あ、それとも、単に主人公がおバカだっただけかな?(^◇^;)


また似たニュアンスで言えば、
アザーズという映画がお勧めです。
なるほど、世界をつくるとはこういうことか!と思いました。


さて、般若心経の一節に、
「顛倒夢想」という言葉があります。

ネットで調べてみると、
「顛倒」とは逆さまなこと。逆転していること。
そして「夢想」とは夢、幻のことで、まったくの虚構のこと、とあります。



私たちは顛倒夢想の世界に住んでいる、と黒斎さんは言います。

「歩いている時、自分が動いて進んでいる、と思っていますが、違います。
自分は動いていません、周りが動いているんです。

上りエスカレーターに乗っていると、
自分が上がっていると思いますよね、でも違うんです。

世界が下がっているんです、だから実際には、
上りでなく、下りエスカレーターですよね、笑

一度、そういう感じで世界を感じてみてください。」


よっし〜などには、???なカオスに思える世界ですね…(^_^;)

また、こうも言います。

「周りの状況のせいで、
怒りや悲しみが引き起こされると思っているかもしれません。
それは違います、逆です。

まず、自分のなかに、その感情があって、
それを表現したいというのが先なんです。

そして、中にあるものを表現するきっかけとして、
外界の出来事が起きるだけです。

だから、そこで感情を抑えられたとしても、
また感情を出すための、別の状況が起きてしまいます。

そして、それは抑えたぶんだけ、前よりも強烈な状況になります。」


なんだか…
この世は、私が思っている以上に顛倒夢想そうです…。
なにが何だか分からなくなってきた、よっし〜なのでした (;^_^A
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ご無沙汰しております〜m(_ _)m
しばらく、ご無沙汰しておりました。
みなさま、すみません〜m(_ _)m

すっかり春ですね。(^_^)

冬に蒔いたホーリーバジルや亜麻の花が咲きました。
どっちも、今回初めて育てた植物です♪

さて、ホーリーバジルは、一般的なスイートバジルとはかなり香りが違います。
ジェノベーゼには使えないので、スイートバジルも蒔きたかったのですが…。

調べたら、びっくし! (@◇@;)

バジル同志は、一緒にすると交配してしまうらしいです。
つまり、来年度は、純粋種の種が取れない…。

それどころか、バジル同志だけでなく、
シソ科の植物同志でも、かなり交配するのだとか。

青じそ、赤じそ、バジル、ミント、レモンバーム、ラベンダー…。
これらが混じるとなると、かなりカオスなフレーバーになりそう…(^_^;)

そういや、毎年庭の片隅に、
青じそとも赤じそともわからない、シソが生えるのですが、
このせいなのかも知れません。(元々は赤じそだったのよ〜)

〜・〜・〜・〜・〜

さて、私は、いわゆる目覚め体験はありません。
なので、生きるとは何かとか、あの世とは何かとかは、
ぶっちゃけ理詰めで考えるしか出来ません。

でも、思考のみの結論であったにしても、
やっぱりこの世はこのままでいいらしい、という所に
落ちつくようになりした。

ただ、経験や実感としてはないので、
理屈でしかないのですが…。(^_^;)



さとり体験の一番の醍醐味はというと、
絶対的に大丈夫だった、という実感なのだと思います。

しかし、凡人である私たちは、
いわゆる死、終わりがあるのを知っています。

そこが「恐れ、埋められない欠乏感」のそもそもの原因であると思うのです。

そして、ここが癒されない限りは、
人生のラットレースから抜けることは不可能かもしれません。

「人生は、生き残るための戦いにすぎない」
多かれ少なかれ、そんな信念を誰もが抱いているのではないでしょうか?

それを黒斎さんは、こんな言い方で表現します。

「僕たちは死なないように生きているのであって、
本当の意味で、生きてはいない」
と。

そして、このようなことも言っていました。
(記憶なので、多少違っていたらごめんなさい。)

「ああ、僕が死ぬこと、つまり命を失うなんてあり得ない事なんだ。
だって僕そのものが命なのだから。

それがわかって、初めて、
死なないように生きるのではなく、
真の意味で生きることが出来るんです。

だって、自分(命)を失うということはあり得ないんですから。」


思考での理解のレベルでは、
実感や安心感は得られません。

しかしながら、理屈程度の納得はできます。

欠乏感でいっぱいの、
(つまり死なないように頑張ってくれている)エゴ君を納得させて、
落ち着かせるくらいには…。

だから私は考え続けるんだろうな、と思うのです。

エゴのしくみは何なのかということを。
何が利点で、どこが危険なのかを。

もしかして、それを知りたくて、
このブログも書いているのかもしれません。


結局のところ、エゴもカルマも消滅できません。
少なくとも、この世にいる限りは。

そして、エゴにもエゴの役割があり、
この世では、絶対に必要でもあるのです。

重要なのは、エゴに人生を先導させないことです。
エゴは欠乏感があるし、それゆえに混乱しているからです。

臆病な馬を勝手に走らせても、目的地には着きません。
しかし、優れた御者がいれば、好きな所へ行くことが出来ます。


エゴとは何か、そして本当に望むものとは何か…。
それが、私の追求したいテーマなのかもしれません。

途中になっている「自分の為に生きるということ 」というテーマも含めて、
そのようなことが書けたらな、と考えています。


また、いつも来てくださる皆様には、
本当に励みをいただいています、有難うございます♪

※しばらく反省のために、
ブログランキングへのリンクは自粛いたします〜m(_ _)m
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お詫び
今回は、皆様にお詫びしたいことがあります。

昔の記事で、ルースワイヤー、
ワイヤーアートでペンダントを作る、という記事を書いたことがありました。

ルースワイヤーとは、
ルースに巻くだけでペンダントになるという市販のワイヤーです。

これは、ニルヴァーナストーンさんで習ったものですが、
実は、そちらの許可なく作り方を載せてしまったのです。

このようなことをしてしまったのは、
当時、来客数もほとんどなく、
内輪しか見ていないという感覚のせいもありました。
もちろん、それもいけないことでした…。

また、ニルヴァーナストーンさんへのリンクもはり、
多少でもそちらの宣伝になればいいな、など思っていたのも
私のおごりでした。

最近、読者の方から、
この記事へのお叱りを受けまして、削除いたしました。

また、それを受けまして、
ニルヴァーナストーンさんにも、お詫びのメールを遅らせていただきました。

一方的に非がある私にたいして、
ニルヴァーナストーンさんからは、
丁寧かつ、誠実なお返事をいただきました。

もちろん、それに甘えてはいけないのも分かっておりますが、
ニルヴァーナストーンの
OさまとIさまには、深く感謝しております。

ニルヴァーナストーンさんはもちろんのこと、
読者の方々にもお詫び申し上げます。

反省を込めて、ブログも自粛しておりましたが、
今後は、このようなことはしませんので、
ご容赦いただけましたら幸いです。

皆様、本当に申し訳ありませんでした。
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他人の為ということ
air_rank[1]

ノラドラさんのブログによると、
彼女の動物保護活動を、潰そうとする組織があるそうです。

声なき弱者、動物たちに貢献する活動だけに、
苦境に立たされている様子には、胸が痛みます。

しかし、変化が起きるときは、既存のものからの反対にあうものです。

それと組織といったもの、つまり団体、会社や国といったものは、
まるで一つの生き物のように動きます。
自我を持つ、といっても良いでしょう。

そして、自我は、欠乏感や恐れを抱いているものだし、変化を嫌います。

また、自我は分離であるために、
対立することで個を保ってもいます。

以上のことから、組織は、変化が起こりそうになると、
自身が脅かされたと感じて、攻撃をおこしたりします。

ノラドラさんに反対する団体も、
自分を守るための攻撃なのでしょう。
(もちろん、実情は知らないので分かりませんが…汗)

だからこそ、祈らずにはいれません。
どうか、ノラドラさんの動物保護活動が上手く行きますように。
そして、反対する団体にも、ベストな事が起こりますように…。


さて、他者のために祈ったり、行動するということ。
これは、自分をより自由で、幸せにするための行為だと思います。

「情けは人の為ならず」という言葉がありますよね。
これは「情けは相手の為に良くない」という意味に勘違いされやすいですが、
実際には「情けをかけることは、結局は自分の為である」という意味だそうです。

そして、確かにその通りだと思うのです。

わかりやすくするために、
逆のことを考えてみましょう。

自分の利益ばかり気にしている人がいるとします。

自分にしか興味がない彼は、しだいに視野が狭くなり、
それに比例して、恐れも大きくなります。

恐れが大きくなると、さらに自分を守ろうとするので、閉鎖的になります。
閉鎖的になれば、周囲からの協力が得られなくなるので
より恐れや欠乏感が大きくなり、それで貪欲になり、さらに閉鎖的に…。

こうして、負のループにはまります。

小さな個に集中すればするほど、分離と小ささが強調されてしまう。
それに、比例して自由度も失われ、苦しみが増えてゆく…。

自分(小さな自我)に執着する人ほど、苦しみが増すのです。

対して、他を思いやるとは、周囲とつながること、
つまり大きくなることです。

黒斎さん流に言えば、
ネット接続をしていなかった、スタンドアロンのパソコンが、
ネット接続するようなものです。

孤立したパソコンは、自由が制限されています。
やれることが、PC内のデータのみで左右されるからです。
PC内には、限られた情報しかないため、あまり自由さはありません。
そして不自由ゆえに、欠乏感でいっぱいです。

しかし、ネット接続されていれば、可能性・自由度は無限です。
ネット全体の情報が利用できるからです。
それが豊かさです。

さて、結局のところ、他者の為の祈りや行為は、
自分は個ではないのだ、という宣言
なのだと思います。

他者を思いやったり、助けることが、
自分は、自我を超えた大きな存在なのだ、ということを、
(無意識にですが)思い出させるのだと思うのです。

なので、慈悲深い人は、比較的、恐れや制限から自由です。

そして、はじめは慈悲深い人でないとしても、
他者のための行為をすることで
自由で、幸せな人間になってゆくだろうと思うのです。

「慈悲の瞑想をやれば、不思議と現実が良くなってゆく」と
聞いたことがありますが、それはこの理屈だと思います。

ちなみに、慈悲の瞑想について、書いた記事はこちら…
◼︎全体性を取り戻す ~思いやりと引き寄せ~ ◼︎



ええと…。
何を言いたいか、だんだん分からなくなってきましたが…。

ええと、もし良かったら、
ノラドラさんを応援してみてね、ということです。

う、うまくまとまったしら…? (^◇^;)

〜・〜・〜・〜・〜・〜・

さて、前々回、ゲームについて書きましたが、
一つ、書きそびれたことがあるので、書きますね。

かなり現実社会に近いな、と思うものにオンラインRPGがあります。

用意された共通の一つの世界に、
複数のプレイヤーが参加することとか、
人間関係が重要なところとか。

いや、私はやったことないですれど。(^_^;)

でも、オンラインRPGを舞台にした、
この漫画は面白いな、と思いました。

◼︎ネト充のススメ。◼︎

でね、もし自分がオンラインゲームをするなら、
どんなアバターを作るんだろう、などと考えてみました。

実際の性別や年に近いキャラを作れば、
共感できやすくていいな、なんて思ったり。

逆に、すべてにおいて、
反対のキャラを作っても面白いかな、なんて思ったりしました。

で、思ったわけです。
ああ、ワンネスから離れた時も、きっとこういう風だったのかな、と。

必ずしも、美男美女を操作したい訳じゃない、
そして、優れたスキルの優等生キャラを作りたいわけでもない。
(まぁ、それはそれで面白そうですが…)

ユニークなキャラをやってみたい、自分にない要素を味わってみたい!

そんな純粋な好奇心から、全ての存在は作られたのかもしれませんよね〜。

傍から見たら、性格も、ルックスも、
スキルも良くない、どうしようもないキャラに見えたとしても…。

それさえ、望まれて生まれたキャラクターなんでしょうね。
存在の善悪すら超えて。

漫画中にも、現実ではイケメン君なのに、ゲームではデブキャラを選んでいたり、
現実では美女だけど、面白オネエキャラを操る人が出てきます。

見た目の良さが、重要視される世の中ですが、
わざわざ、そうでないキャラを選ぶ人もいるわけです。

というか、むしろそれが良いというか。

スピ系で言われる「そのままでいい」っていうのは、
そんな神から見た目線の話かな、などと思ったのです。


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